2008年10月29日水曜日

レムリア

かつて太古の時代、現在のハワイの辺りにレムリアという大陸があったという。神話・伝説のような話だが、この大陸では5000万人の人々(魂)が暮らしていた。人々は魂の成長のために生まれて来たことを知っており、瞑想のなかで多くの学びを得、人の寿命も限りはなくその人としての学びが終わるまで生き、学びが終わるとこの世を自ら去ってゆくのだった。人々の心は繋がっており、誰かが問題を抱えているとあらゆる人が社会全体としてその問題を抱えた人のために力を惜しまず支援をし、その問題が解決し社会の中へ復帰できるよう協力するのだった。人は孤独や窮乏の中に置き捨てられることは決してなく、社会全体として魂の成長を目指すのだった。人々の調和は自然にも影響を与え、木々の生命力は強く、その果実を惜しげなく人々に与えてくれた。鳥や動物も人と易々とコミュニケーションをとり、親しく人間とも交わっていたし、人々は木々や動物の交わす会話に容易に耳を傾けることができるのだった。
永く平和で調和のある満ち足りた時が過ぎていった。
あるとき他の地からきた人々、技術に長け技術を好み、個人の利益を大切にする人々がレムリアに入ってきた。彼らはレムリアの純朴で優しくすべての人の幸せを大切にする人々の間に楔を打ち込むことになった。レムリアの人々は新奇で珍しい技術を引っさげた人々に徐々に影響を受け、レムリアの調和は徐々に崩れていった。調和が崩れるとその影響を大きく受けていた自然もバランスを崩し始め、ついには天変地異の大崩壊とともにレムリアは姿を消してしまった。
僕たちの住む世界は楽園の消えた後の世界なのかも知れない。人々は利益を求め、個人や家族、所属する集団の利益のために奔走し、安らぎや調和も利益追求の道具のようになっている。貧困や病、孤独、争いは世界に蔓延し環境破壊は進み、この先世界はどうなってゆくのかだれも分からない状態だ。この状態でも僕たちの社会は技術や成長を信じようとし、豊かな生活を求め続けている。僕たちは一度技術を捨て、レムリアの時代に戻ることが必要なのかも知れない。人々の心が繋がった平和で調和のある自然と一体となった世界。僕たちは心の深いところでそんな楽園を求めている。楽園は僕たちの心が魂に目覚め、人々を5000万の魂という呼び方で呼ぶことができたとき、再び地上に生まれるのかも知れない。

2008年10月12日日曜日

人類が消えた後の地球・・・

人類が消えた後の地球・・・。
そんなテーマの番組があった。100年、200年という時間の経過とともに人類の痕跡は消えてゆき、それとともに地球は緑を増やし、乾燥地は自然な乾燥地らしい自然へと還ってゆく。海はトロール漁船による略奪がなくなって魚が増え、クジラは巨大な船舶が出す騒音が消えたために遠くの仲間と音波で交信しながら生きてゆく本来の姿を取り戻してゆく。都市は緑の草原や森林に戻り、それとともに多くの野生動物も戻ってくる。現在の野生動物は山に追いやられ、人間によってもっとも豊かな土地はすべて奪い取られている。都市に野生動物が迷い込もうものなら、大変な異常事態として大捕獲作戦が行われる様だ。都市でなくとも広大な農地は柵で囲まれ農薬で多くの生物を排除して人間が独占している。
人類が消えた後の世界で自然が本来の姿を取り戻してゆく映像は不思議と心癒されるものだった。地球が生命の輝く星として再生してゆく物語を観ているように感じるのだ。
「地球に優しい暮らし」「地球を救う」といった言葉の意味はどこにあるのだろう・・・。
僕たちが消え去ったとき、地球は生命の輝く素敵な星になる。僕たちが生きていることはそれだけで地球を痛めつけ、略奪することになっているのだ。その最大の理由は「経済的な利益」を人間が最大の価値基準にしていることだと思う。この世界で人間の思考の大半を占めるものはどのようなものか、少し考えてみるといい。悩みや不満、損得、性欲、病気や飢餓、孤独、争いと敵意、そして限りないノイズのようなつぶやき・・・。
もし人間の思考が「すべてを包み込む愛」を基本にしたものに変わるならば、だれも問題を抱えたまま放っておかれることはないだろう。人間が心豊かに満たされることを知れば、自然を収奪する必要はなくなってゆくだろう。人口も増えることはないし、たくさんのものを溜め込む必要もない。人類の消えた世界の姿は、人類が愛に目覚めた世界として訪れることも可能なのだ。僕たちは現在、その大きな岐路に立っているのだ。

2008年10月5日日曜日

一回きりの人生を超えた世界

僕たちは何故生まれてきたのだろう?
いくつもの前世があり、その度にやり残したことや後悔があり、喜びや悲しみを再体験したり癒したりする必要、そして更なる向上を目指して新たな人生の冒険を決意して生まれてくるのだろうか。しかし僕たちは生まれてくるとともにその目的も過去もすべて忘れ去ってしまう。それは毎回の人生を新鮮に体験するための仕組みなのだろうか。意識の表面では僕たちはこの一回きりの人生しか知らないし、出会う人もすべて初対面だ。しかし「あっ、この人!」と何かを感じたり、誰に教えられたり指示された訳でもないのに得意だったり興味のあること、どうしても苦手な人や苦手な事があり、それはひとりひとり全く異なっているのは何故だろう。深い意識には記憶が蓄積され膨大な過去からの経験の積み重ねが埋蔵されているのかもしれない。自分の知らないそんな経験や意図に突き動かされて僕たちはそれぞれの道を歩んでいる。そんな気がするのは僕だけではないだろう。僕たちはこの地球で得られるあらゆる体験をいくつもの人生のなかで重ねてゆき、深く重厚な愛から浅はかな策略まで様々なものを得てゆくのだろう。それらの経験は僕たちの生命の本質を深めてゆくことになり、地球上での体験を十分に重ねるまで、僕たちは再生を繰り返すのかも知れない。
その意味で地球は生命の学校なのかもしれない。僕たちは物質的な制限のある体で生きるという奇妙な経験のなかで成長するために、この地球にやってきた生命体なのだ。
そうして僕たちは何故このような経験を必要としどこから地球にやってきたのか、そして地球学校を修了したあと一体どこへゆくのか、今この時代に僕たちはその視野を拡げ、一回きりの人生を超えた世界を基礎に地球と人間の生命に向き合う必要に迫られているのではないか。