僕は今までに3つの前世の存在をおぼろげに観たことがある。ひとつは南洋の島、僕はポリネシア系のよく焼けた恰幅のいい男性で、海や自然を愛し浜辺の木々とも交感できたようだ。自然と人が分離していない穏やかな調和のなかに暮らしていた様子が僕にとって理想の暮らしに見えた。次の前世で僕はカナダ・ブリティッシュコロンビア辺りの先住民の女性として生きていた。薬草の調合などもしていたようで森の民の暮らしを営んでいたのだが、何かの濡れ衣を着せられて集落中から村八分にされ、深い穴に落とされるようにして死んでしまった。そのときの不条理さと周囲の人間の変わり様に人間への不信感と恐れを抱き、それは死後もおおきなトラウマとなって残ってしまったようだ。そして3つめの前世はネパールを旅したときに白昼夢のように現れた。僕はインドかネパール辺りの村の身分の高い家に生まれたらしい。この前世で僕が見たのは老人が悲しげに野良犬にパン切れを与えている光景だった。僕はその老人でカースト制のため身分の低い人に触れることも許されず、犬にももちろん触れることができなかった。そのことに不条理を感じ、ただひとり寂しく触れないように注意しながら犬にエサを与えているのだった。そしてひとつの声が「この犬たちは今の人生で出会ったストリートチルドレンの前世なのだよ」と告げる。声の主は白装束で端正にあぐらをかいた神主の姿をしている。僕の家系は長く大きな神社の神主だった。この旅のなかで、僕は多くのストリートチルドレンと出会い、たっぷりと遊び、触れ合った。それはこの前世で感じた不条理のためだろうか。
これら3つの前世は他愛ない妄想と笑って済ますこともできる。しかし僕の持つ基本的な特徴を見事に表していることも否めない。自然への愛は自然との一体感というレベルで感じるとき、僕にはもっともしっくりくる。人との関係は僕にとって常に不安の材料となる。僕は人を信じるのだが、それと同時に理由なき恐れを常に感じている。自分の距離感、感覚で人に近づいたとき、とんでもない結果が起こるのではないかという漠然とした恐れがあるのだ。不条理な死のトラウマとすれば、それは実にしっくりくるものだ。そして僕は人を差別しない、人は平等であるという考えをいつも持っているつもりだ。これはカーストの不条理への反発ともとれる。また家事や細かいことは人に任せてしまう傾向があるが、それも身分のためみんな人任せにしていた後遺症なのかもしれない。
では、現在の僕は何故生まれる必要があったのだろう?
人を恐れるトラウマを癒し、不条理な状況にある人とともに歩むため。そして自然の素晴らしさに人間が再び繋がってゆく道を見つけるため。
僕には現在のように工業化され、資本主義化された大きな社会での人生経験がないのかもしれない。この社会は僕にとって決して居心地のいい社会ではない。この時代に生まれてくるために僕に与えられてものは一体なんだろう?考えるなかでふと気づいた。幼い頃から馴染んでいたカメラ、そして小学生のころから好きだった文章を書くこと。
前世から続く人生のなかで、カメラと文章を武器に心を癒し、不条理に向き合い、自然との調和を求めてゆく。僕の人生はこんな方向を目指しているのだろうか。
人はみな、何かの大きなドラマを生きているのではないかと思う。
僕には僕のドラマがある。そしてあなたにはあなたの大きなテーマがあり、大河のような物語を生きているのだ。深く自分を見つめるとき、あなたもそのドラマに気づくことだろう。