2008年9月29日月曜日

心の基底

無意識について、フロイトは心の抑圧という病理的な観点から描き出したけれど、ユングによって新たに自由な心の活動が行われる場として描き出された。僕はそのように理解している。彼らにより心の深層の存在が明確に言葉にされ、心は科学の探究の場になった。
僕たちが生きてゆく中で幸せとは何か考えると、活き活きとした、心の満たされる生き方のように思う。物質的な充足は必ずしも幸せに繋がる訳ではないということは既に多くの人が気づいている。心の充足は表面の意識の欲求とは必ずしも一致しないし、表面的な意識が求めるお金や名誉、権力などは却って本質的な心の充足とは反対の結果を生むこともよくあることだろう。人は分離した個人のエゴを満たそうとしても表層しか満たすことはできないのではないかと思う。表層の意識を満足させるとき、多くの人は無意識を抑圧することになり、それは結果心の充足には繋がらない。ここで抑圧される無意識は本来的な生活の中では活き活きとしており、幸せを感じる中枢ではないかと思う。無意識を心の基底と考えると、心の基底の望むことをそのままに行うとき、幸せが訪れるのだろう。無意識は個人の内にとどまることはなく、すべての人、すべての生命、すべての宇宙へと繋がる心の入り口だ。この無意識の喜びは全宇宙の喜びにつながっているだろう。
僕たちが今、地球上ですっかり行き詰まった状態にあるのは心の基底にある無意識の喜びを大切にしていないせいではないか、論理と計算で損得を考え、人を利用し、生命や自然を蹂躙するような社会のあり方。ここではきっと、すべての人が心の底で悲しんでいるのではないか、世界は無意識の悲しみに覆われているためにこんな状況にあるのではないだろうか。心の基底の喜びを感じる生き方を選択したとき、世界は、僕たちはきっと変わっていくのだと思う。

2008年9月26日金曜日

サクラの下で

僕は週に2〜3回は軽いジョギングをすることにしている。ジョギングの後はお気に入りのサクラの木にもたれかかって休むのがお決まりだ。そして声にはださないけど、いつもサクラの木に話しかけている。ある日、いつものようにジョギングの後、休憩のためサクラにもたれかかり手をその大きな幹にかけると、人差し指に何かがパチッと嵌まる。"なに?"と思って手を見ると、そこにはサクラのめくれ上がった表皮がぴったり嵌まっていた。僕はサクラのメッセージのように感じた。"サクラからの贈り物の指輪!"それはとても質素だけど、とっても素敵な贈り物だった。
またあるとき、サクラが咲き終わり小さなサクランボがたくさんできていた。僕は試しにサクランボをつまんでみたが、まだまだサクランボはしっかり枝にくっついていて取れそうになかった。翌日、僕はまたサクランボに触れてみた。今度は実際に小さなサクランボを取って試しに食べてみようと思っていた。すると触れた瞬間、サクランボはポロッと枝から離れ、僕の手の中に転がり込んできた。もう一粒取ると、それも同じようにポロッと手の中に入ってくる。サクラが僕にプレゼントしてくれたようだ。そのサクランボは元々食用ではないし、口に入れると酸っぱくてとても食べられなかったけど、僕はサクラが贈り物をくれたんだと感じた。数日後、もう一度、今度は食べる気はなくどのくらいしっかり枝にくっついているのか試すためにサクランボを引っ張ってみた。サクランボはしっかり枝についたままで軽い力では取れそうになかった。何故、あのときだけあんなに簡単に取れたのだろう?このサクラは僕の心とどこかで繋がっているのだろうか?
僕は今もジョギングの後、このサクラの下で休んでいる。
サクラはいつも僕に安らぎを与えてくれる。

2008年9月24日水曜日

前世から続くドラマ

僕は今までに3つの前世の存在をおぼろげに観たことがある。ひとつは南洋の島、僕はポリネシア系のよく焼けた恰幅のいい男性で、海や自然を愛し浜辺の木々とも交感できたようだ。自然と人が分離していない穏やかな調和のなかに暮らしていた様子が僕にとって理想の暮らしに見えた。次の前世で僕はカナダ・ブリティッシュコロンビア辺りの先住民の女性として生きていた。薬草の調合などもしていたようで森の民の暮らしを営んでいたのだが、何かの濡れ衣を着せられて集落中から村八分にされ、深い穴に落とされるようにして死んでしまった。そのときの不条理さと周囲の人間の変わり様に人間への不信感と恐れを抱き、それは死後もおおきなトラウマとなって残ってしまったようだ。そして3つめの前世はネパールを旅したときに白昼夢のように現れた。僕はインドかネパール辺りの村の身分の高い家に生まれたらしい。この前世で僕が見たのは老人が悲しげに野良犬にパン切れを与えている光景だった。僕はその老人でカースト制のため身分の低い人に触れることも許されず、犬にももちろん触れることができなかった。そのことに不条理を感じ、ただひとり寂しく触れないように注意しながら犬にエサを与えているのだった。そしてひとつの声が「この犬たちは今の人生で出会ったストリートチルドレンの前世なのだよ」と告げる。声の主は白装束で端正にあぐらをかいた神主の姿をしている。僕の家系は長く大きな神社の神主だった。この旅のなかで、僕は多くのストリートチルドレンと出会い、たっぷりと遊び、触れ合った。それはこの前世で感じた不条理のためだろうか。
これら3つの前世は他愛ない妄想と笑って済ますこともできる。しかし僕の持つ基本的な特徴を見事に表していることも否めない。自然への愛は自然との一体感というレベルで感じるとき、僕にはもっともしっくりくる。人との関係は僕にとって常に不安の材料となる。僕は人を信じるのだが、それと同時に理由なき恐れを常に感じている。自分の距離感、感覚で人に近づいたとき、とんでもない結果が起こるのではないかという漠然とした恐れがあるのだ。不条理な死のトラウマとすれば、それは実にしっくりくるものだ。そして僕は人を差別しない、人は平等であるという考えをいつも持っているつもりだ。これはカーストの不条理への反発ともとれる。また家事や細かいことは人に任せてしまう傾向があるが、それも身分のためみんな人任せにしていた後遺症なのかもしれない。
では、現在の僕は何故生まれる必要があったのだろう?
人を恐れるトラウマを癒し、不条理な状況にある人とともに歩むため。そして自然の素晴らしさに人間が再び繋がってゆく道を見つけるため。
僕には現在のように工業化され、資本主義化された大きな社会での人生経験がないのかもしれない。この社会は僕にとって決して居心地のいい社会ではない。この時代に生まれてくるために僕に与えられてものは一体なんだろう?考えるなかでふと気づいた。幼い頃から馴染んでいたカメラ、そして小学生のころから好きだった文章を書くこと。
前世から続く人生のなかで、カメラと文章を武器に心を癒し、不条理に向き合い、自然との調和を求めてゆく。僕の人生はこんな方向を目指しているのだろうか。
人はみな、何かの大きなドラマを生きているのではないかと思う。
僕には僕のドラマがある。そしてあなたにはあなたの大きなテーマがあり、大河のような物語を生きているのだ。深く自分を見つめるとき、あなたもそのドラマに気づくことだろう。

2008年9月23日火曜日

愛を限定するもの

愛とは本来すべての人、すべてのものに向けられたものだと感じている。愛を現す言葉は多く、その対象によって恋愛、母性愛、家族愛、郷土愛、愛国心、唯一の神への愛などの使い方がある。これらは愛を対象によって限定するもので、その範囲内にのみ愛を注ぐことを美化する表現でもある。他人や他人の子、よその家、外国、異教徒など、外部の存在を前提とした言葉で、そこには愛を侵す敵の存在も暗黙のうちに含まれている。愛するものを敵から守るためには闘うこともいとわない。そんな気持ちも限定された愛の言葉から生まれてくる。僕たちはこの世界に生まれでた瞬間からこのような言葉の海に曝されている。そんな言葉の海の中で限定された愛を当然のもの、とても尊い大切なものとして学んでいく。しかし本当の愛は限定されたものにはなりえない。
このおかしな世界で愛は混乱し、憎悪や恐怖が取って変わる。
愛の分かりやすい例が地球上にもある。例えばイルカ。人間と接するときには遊び好きなパワフルなエネルギーを一杯に放って、人々に素晴らしい活力の素を与えてくれる。また最も弱った、愛のエネルギーを必要とする人間を素早く見つけ、優しい波動でいたわるように接してくれる。するとその人間は明るく元気になり、生き生きとした表情へと変化してゆく。そこでは限定された愛ではなく、すべての方向への愛と、愛を必要とするものへの焦点を絞った支援の行動が自然に行われている。
人間の世界では何故偏狭な愛がこれほど蔓延してしまったのだろう。
偏狭な愛は敵を作り、争いを作り出す。そしてこの世界を苦痛に満ちた苦しい世界に変えてしまう。人は本当の愛を取り戻さなければならない。分け隔てなく、すべてのもの、そして必要とする人に愛を贈ることを思い出さないといけない。限定しなくても愛は減らないし、却って豊かに増えてゆく。あなたに敵がいるなら、何度も何度も充分な笑顔を贈ってみよう。苦しんでいる人にそっと手を差し出してみよう。あなたは恐れていたこととはまったく異なった結果を手に入れることだろう。
愛は限定するほど小さなものではないのだから。

2008年9月22日月曜日

科学と体験の狭間

超能力や心霊体験、神秘体験というものは理系の科学が求める再現性という点で大きな問題があり、未だ科学の主流には警戒感が強い。その雰囲気の中で非科学的とされる現象を否定することも最もだと思う。
昔、僕が最初にそういった現象を信じる前提に置いたのはスプーン曲げだった。これをできる人はかなりの数になり、子供も多く含まれる。これらの人がそれぞれ別個にトリックを考えだし、しかも本気で超能力と信じた振りをして人を騙そうとしていると考えるのはどう考えても無理がある。この現象を認めると、その背景にある何らかのものを想定せざるをえない。しかしその何らかのものはかなりあやふやで、様々な解釈で説明され、人は自分の気に入った説明を採用しているだけかもしれない。僕は長い間、何らかの原因を肯定しながらも、それ以上先に進めない状態だった。
しかしあるとき、超ひも理論を解説したBBCの番組を見て、この宇宙は11次元の世界に浮かぶ1枚の布のようなものであり、このような宇宙は11次元に数多く存在すること。そしてこの世界と11次元の間には非常にかすかな距離があり、決して我々は11次元に触れることはできないということを知った。次元を超えることで起こる現象を考えていると、突然僕の目の前に見えない存在、気や霊といったものの存在が説得力を持って立ち現れてきた。僕はそのときの直感をうまく言葉で説明することはできない。しかし目の前に巨大な世界が現出し、世界はまったく新しい装いで僕を迎えてくれたようだった。かつて僕は神が存在するなら、宇宙の外に存在するしかない、宇宙の外がなければ神は存在しえないという命題を考えていた。このとき、超ひも理論では宇宙の外はある!ということが示されていた。僕は世界観の根本的な再構築を迫られた。宇宙の外はある。そして僕は大きな領域の入り口に立ち至った。

2008年9月21日日曜日

地球

ロバート・モンローがBBという宇宙存在から受け取った星間旅行者のためのインフォメーションによると、地球は何者かが必要とする生命的なエネルギーを生産するための畑として創造されたという。気候を調整し、まず水中で微細な生命を創り、さらに大量の生命的なエネルギーを発する多細胞生命、植物、陸上生命、草食動物、肉食動物と進化させてゆき、肉食動物には牙や爪、角といった武器を与えることで残酷な争いを起こさせ、そのなかで一層のエネルギーの発露を促していったという。そのなかで人間は試験的な形態として圧倒的にひ弱な体と図抜けた頭脳、雑食性という特徴を与え、さらにもうひとつ、特別なものを埋め込んだという。それはその存在の一部であり、それは地球上で求めても存在しないため人間はその渇望を埋めるため飽くなき活動性を持つことになった。人間は予想以上の成果を上げ、大量の上質なエネルギーを発生し続けている。その存在は人間の繁殖を促進させ、エネルギー発生のための多くの技法も開発した。それは愛、友情、家族、欲望、憎しみ、苦悩、罪悪感、病、誇り、野望、所有欲、犠牲、さらには国家、偏狭性、戦争、飢餓、宗教、機械、自由、工業、貿易など....。今、人間は大量のエネルギーを放出し続けているという。
また基本的にそのエネルギーは生命が死ぬときに放出されるため、大量のエネルギーを収穫したいときには、台風などの大きな災害で一気に生命を停止させ、エネルギーの収穫をする。
これらのシステムが地球上の食物連鎖であり、人間の置かれた状況でもある。
このシステムに怒りや絶望を感じることもできるが、人間の特性はこの状況を新たなものに変換する可能性も持っている。その可能性こそ、今の地球が最も必要としているものであり、僕たちがこの時代に生まれて来た理由かもしれない。

2008年9月19日金曜日

At first!

僕たちはいったい何のために生まれ、生きているのだろう。日々の生活に追われあくせく働くばかりでいいのだろうか?恋愛も大切だろう。人の繋がりを大切にし、毎日を感謝とともに生きてゆくことができれば素晴らしいことだと思う。しかし僕たちは何故生まれ、人間的な成長を目指す必要があるのだ?そこにはこの地球、そして宇宙の神秘が隠されているような気がするのだ。その理を神と呼ぶこともできるだろう。あるいは人間には伺い知ることのできない領域かもしれない。しかしその領域を探索し、世界を地球を宇宙を、そして人間を知りたいというのは人間という生命の飽くなき欲求でもある。

このブログは僕の思考の場以外の何者でもない。
ただ思考を深めてゆくために使ってゆこうと思う。

今はまだ何のまとまりもない断片が散らばるだけの僕の世界観を深めるとともに、その全体像を浮かび上がらせる助けとなることを期待している。