これら3つの前世は他愛ない妄想と笑って済ますこともできる。しかし僕の持つ基本的な特徴を見事に表していることも否めない。自然への愛は自然との一体感というレベルで感じるとき、僕にはもっともしっくりくる。人との関係は僕にとって常に不安の材料となる。僕は人を信じるのだが、それと同時に理由なき恐れを常に感じている。自分の距離感、感覚で人に近づいたとき、とんでもない結果が起こるのではないかという漠然とした恐れがあるのだ。不条理な死のトラウマとすれば、それは実にしっくりくるものだ。そして僕は人を差別しない、人は平等であるという考えをいつも持っているつもりだ。これはカーストの不条理への反発ともとれる。また家事や細かいことは人に任せてしまう傾向があるが、それも身分のためみんな人任せにしていた後遺症なのかもしれない。
では、現在の僕は何故生まれる必要があったのだろう?
人を恐れるトラウマを癒し、不条理な状況にある人とともに歩むため。そして自然の素晴らしさに人間が再び繋がってゆく道を見つけるため。
僕には現在のように工業化され、資本主義化された大きな社会での人生経験がないのかもしれない。この社会は僕にとって決して居心地のいい社会ではない。この時代に生まれてくるために僕に与えられてものは一体なんだろう?考えるなかでふと気づいた。幼い頃から馴染んでいたカメラ、そして小学生のころから好きだった文章を書くこと。
前世から続く人生のなかで、カメラと文章を武器に心を癒し、不条理に向き合い、自然との調和を求めてゆく。僕の人生はこんな方向を目指しているのだろうか。
人はみな、何かの大きなドラマを生きているのではないかと思う。
僕には僕のドラマがある。そしてあなたにはあなたの大きなテーマがあり、大河のような物語を生きているのだ。深く自分を見つめるとき、あなたもそのドラマに気づくことだろう。
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