2009年10月17日土曜日

命の分かれ目

 以前、バイクにテントとカメラを積んで北海道を旅したことがある。
 旅の後半、知床に辿り着きキャンプ場でテントを張る。テントを張るとき、僕はいつも小高い丘になった所を選ぶ。それは雨のときテントに雨水が入るのを避けるためだ。このときも僕は大きな樹の側の小高い部分を気に入ってテントの設営を始めた。テントを張り少し離れて眺めたとき、なんだか変な気分になった。なんとなく居心地が悪いような気がして、テントの位置をずらしてみた。「う〜ん・・・」もう少しずらしてみる。丘の端っこになり、さっきの方がいい場所のようにも感じる。「まっ、いいか!」

 これが僕の命の分かれ目とは、思いもよらなかった。

 数日後、台風崩れの低気圧が知床を直撃、キャンプ場にも強烈な風が吹き荒れた。
 ほとんどのキャンパーは撤収し、残るのはほんの数人。僕はテントの張り綱をしっかり張り直し、強風の中テントで一夜を過ごした。夜半を過ぎ、時々風に折れた小枝が「ビシッ!」とテントにぶつかってくる。隣のテントは風でフレームが変形している。
「ブゥオン!」風が固まりになって襲ってくる。
「ドンッ!」「バサッ!」
 テントに大きな枝が触れた。
 外には太さ30cm以上、長さ7〜8mもある枝が根元から折れて落ちていた。
 そう、僕が最初にテントを張った場所を直撃して・・・

 偶然と言っていいのだろうか・・・
 予感? それとも誰かに導かれて?
 多くの人が何らかの形で経験していることだろう。
 僕たちの棲む世界はどのような構造をしているのだろう、僕たちの知らない何者かがこの世界を、そして僕たちを導いているのだろうか?もし、そうとすればそれは一体どこへ向かっているのだろう。
 おぼろげにイメージすることはできる。
 僕たちは茫漠とした道を迷いながら歩いている。冒険と失敗、出会いと別れを繰り返して、そしてどうしても危ないとき、何かがほんの少し道を修正してくれる。
 あのとき僕はまだ死ぬときではなかったのだろう。
 僕は今も生きている。道に迷い、僕自身の道を探して歩いている。
 僕の命が終わるとき、「よくここまで辿り着いたね!」と迎えてくれる何者かの存在を漠然と感じながら・・・



2009年6月22日月曜日

シカとの出会い


 臆病だけど、素直で心優しく争いを好まない。野生のシカの特徴だ。
 街からほんの少し山に入った小さな河原で野生のシカが草を食んでいた。僕がゆっくり近づいてゆくと、シカは常に一定の距離を保って警戒しながら草を食む。僕は根気よくその様子を眺め、シカをカメラに収めていく。そのうちシカは少しずつ警戒を緩め、僕の存在を許容してくれるのが感じられる。時々こちらを見るがその眼はとても優しく、もう僕から危険を感じていないようだ。そのシカは僕の前で1時間くらい草を食んでから山に帰って行った。

 近年、都市近郊でも野生のシカが増えている。温暖化で冬に餓死するシカが減少し、山の中だけでは生活領域が不足しているのだ。植林された林ではシカの食害が問題になり、山奥の原生林もシカによって破壊されてきている。このまま放置すればシカは年々増え続け、自然の生態系はバランスを失いどんどん破壊されてゆくことだろう。シカは生きてゆくために草や樹皮をたべているが、決して自然を破壊したりしたくはないだろう。人はそこで狩猟によってシカの個体数を調整し、自然のバランスを回復させる可能性を考える。それは実に合理的で適切な対処かもしれない。
 僕たちは自然林を破壊し杉や檜をせっせと植え、鳥や動物の棲むことのできない、まるで死んだようなひっそりとした森をたくさん作り、それを賞賛してきた。それを行った人々は家族思いで孫の代までの幸せを祈り、優しく愛情を持って杉や檜を植えたのだ。一生懸命働く働き者ほど広大な土地の自然を破壊し、野生の土地を奪っていった。彼らにとってそれは賞賛されるべき素晴らしいことではあっても、非難されるようなことでは決してなかった。
 僕たちは今、まともな価格の付かないどうしようもない杉や檜の森をたくさん抱え、シカを食べるためではなく個体調整のために殺す必要に迫られている。一体誰が悪いのだろう。どこで間違ってしまったのだろう。
 家族を愛する人が森を破壊し、自然を愛する人がシカを殺す。
 個々の部分を見たとき、より豊かになるため、自然を守るためには仕方なかったと言えるかもしれない。しかしそこに僕は何か割り切れないものを感じてしまう。
 この状況に植林された杉や檜、増えすぎたシカたちは困惑しているように感じるのだ。
 すべては人間に原因があるのだ。植林はもちろん、温暖化によるシカの増加もやはり人間の活動が原因なのだ。どんな奥地の原生林であれ、現在の地球では人間の活動と切り離しては存在していないのだ。そして多くはそのためにバランスを崩してしまっている。
 僕たちは人間の世界という枠に収まっている存在ではない。僕たちの身の振り方で地球の生命はあらゆる可能性へと進むことが考えられるのだ。たとえ核で汚染されたとしても、新たな生命が地球上では存在してゆくことだろう。しかしこの地球で僕たちも仲間の一員として存在し続けることを望むなら、僕たちはもっともっと成長する必要がある。
 すべてのものを包み込むような慈愛を持つ存在になれるよう・・・
 そのように成長できたとき、人間の組み込まれた地球の生態系として僕たちは新たな法則で存在する愛に満ちた地球を経験することになるだろう。

2009年6月16日火曜日

ホタルの川で


 河川沿いの道は街灯が灯り、車のライトが間断なく行き交っている。そんな都会の河川でも昨年はほんの少しホタルを見ることができた。
 今年もホタルを見に夜の河川へ行ってみると、昨年の数倍のホタルが音もなく飛び交っていた。
 騒がしい車の騒音と明るい街灯の光、しかし川沿いの道をゆっくりと歩きホタルを楽しむ人たちもいる。
 ホタルに意識を集中すると、瞬間静寂が訪れる。
 スィ〜、スィ〜・・・
 音もなく流れる美しく頼りなげな光の数々・・・
 僕たちは長い間失っていたものを少しずつ取り戻しているのだろうか。
 強力で図々しい経済的成長という悪夢から目覚め、満たされた調和という夢を少しずつ現実に取り戻しているのだろうか。
 僕たちは一体何のために生まれ、生きているのだろう。
 少なくともたくさんのお金に囲まれるために生まれてきた訳ではない。
 僕たちはいつまで知らないフリを続けるのだろう。
 豊かさは調和を感じ、愛を紡いでゆく心にあるということを・・・

2009年6月12日金曜日

樹々の声 - 植林された杉


 私たちは決して怒っているわけでも悲しんでいるわけでもありません。しかしこの狭い斜面にびっしりと植えられ、細く長く成長してゆく様に戸惑いと違和感を感じています。本来の私たちはもっと伸び伸びと、永い時間をかけて幹を太くし、堂々と天に向かって伸びてゆきます。しかしこの窮屈な斜面で私たちは、人間の経済効率と時間感覚のなかで人の一生より短い時間で伐採されてしまいます。私たちが巨木に成長し大地に深く広く根を張ったとき、私たちが地球とあなたたちのためにどれほどの働きができるかを知ってください。細くてわずかな経済的価値を持った材木としてではない、私たちの本来の姿を知ってください。私たちは大地を健康に保ち、あなたたちの生命を本来のあなた自身に近づけ、深く広く根を張った精神へと導いてゆくことができます。あなたたち人間が私たちの大きな役割に気づいてくれたなら、私たちはあなたとともにどれほどのことができるでしょう。
 今、私たちはこの狭い斜面にびっしりと植えられた状態にありますが、本来の私たちはそのようにされるべき存在ではありません。私たちは待ちましょう。一刻も早くあなたたちが気づいてくれることを待ちながら、私たちはこの斜面で成長してゆきます。

2009年1月11日日曜日

新たな世界へ

昨日、ブータンを旅する番組を見た。チベット仏教を国教とするブータンでは国王が経済発展より人々の幸せを大切にする指標を唱え実践している。近代化の必要性は認めながらも西洋化や物質主義に陥らずブータンの文化や伝統に根ざした精神的な生き方の価値をしっかり認識しているのだ。そのなかで一般的な国力の指標となるGDP(国民総生産)ではなく国民総幸福こそ追求されるべき大切なことと国王は話し、国民もそんな国王をとても慕い尊敬している。前国王はそれまでの王制から民主的な政府を選挙で作るよう指示し、首相以下政府が組織されたところで王位を息子に譲り引退した。新国王は戴冠式でブータンに住む動物たちの代表の挨拶を受け、その後姿を消したかと思うと会場の民衆のなかで自分もともに祭典を楽しんでいた。戴冠後の国民への挨拶では「自分は王位にある間、決して支配者のような振る舞いはしない。親に仕えるように国民に仕える。」と話した。
僕たちにとってこれらの言葉や国の在り方はいつからか途方もなく遠い出来事のようにしか感じられなくなってしまったのではないか。
貧しいけれど誰かが飢えたまま放っておかれることのない、自分より人の幸せを大切にする優しさと思いやりのある社会。
僕たちの社会が失ったのは単なる優しさや思いやりなのだろうか?
西洋化のなかで僕たちが得たもの、それは物質的な豊かさであり現実世界での経済大国としての存在感だ。
西洋化のなかで僕たちが捨てたもの、それは精神性であり心や魂の深みで世界を見つめ生きてゆく人間の本質に関わるものだろう。
ブータンで人々が心豊かに生きているのは人はいずれ死ぬがそれで終わりではない、来世があり、再び人々とともによい人生を生きることができる。そのときのためにも人とともに心豊かに生きようという信仰があるのだ。そのためブータンには墓がないそうだ。49日で人は再び生まれ変わる。それなのに墓など何の用があるのだ。
永遠に残る石の墓を作り、死を絶対的な悪として忌み嫌う西洋の価値観・・・。
現在の金融危機も少し前の石油や食料の高騰もすべて死を忌み嫌う、死をすべての終わりとする世界観がその原因として根底にあるのではないか。

僕たちはブータンのような世界に戻る必要はない。
僕たちに必要なのは今までの西洋的な価値観やすでに捨ててしまった東洋の伝統を超え、そのすべてを内包する新たな世界の文明を築き上げることだ。